沿革

万福寺のある大三島旧岡山村は、昔から親鸞聖人の説かれたお念仏のみ教えをよろこぶ方が多くおられる地域でした。明治になってご門徒の尽力によって、旧吉田藩から寺号とご本尊をお招きし、この地にお寺が建立されました。

 

万治  3年(1660年) 創建(現宇和島市吉田町)

明治24年(1901年) 現在地に寺地移転

平成19年(2007年) 本堂改修 

 

指定文化財

阿弥陀如来三尊像(忠左衛門持仏) 室町後期木彫 

阿弥陀如来像60.5×27×21 脇士38×12×8.5 厨子104×62×52

今治市指定重要文化財


大永七年(1527)広島県竹原の西野当りから大三島口総に移住した忠左衛門が所持してきた仏像と伝えられている。
 天正四年(1576)石山合戦の際、織田信長に対して苦戦を強いられていた 大阪 本願寺を援護するために中国の毛利氏、小早川氏等は軍艦、兵糧船で支援した。 その頃、忠左衛門はこの近辺の有志を募り参戦する。その兵糧輸送は成功し一団は大阪に留まる。しかし翌五年正月、尼崎の攻防戦で一団は戦死する。
その殉教の功を賞え、境内に「賞功碑」が建てられている。

 

山岡鐡舟筆 山号額原紙 1888年明治21年)

本紙54.7×122.8 表装181.0×142.0

 

鐡舟は名は高歩、字は猛虎、鉄太郎と称し、鐡舟は号。戊辰戦争の際、江戸城が官軍に包囲された時、勝海舟の使者として沼津に赴き、西郷隆盛に面会し江戸の市民を戦から守るよう懇願し、西郷・勝との会談を実現させた。
 明治になって新政府からもその人格が望まれ数々の要職に就き、明治天皇の侍従を勤めた。明治21年に53才で病死する。

 この山号額原紙は、記録には次のように記されてある。

「明治21年佐々木蔵海氏の紹介により四ツ谷区谷中全生庵を訪ねた。鐡舟は病床にあり、採筆を医師からとめられているのだが、仏法の為ならと、起きて一気に27枚を書した」 (公曰く、余は近来彩筆を禁じおれども寺の再興とは実に義挙、余の深く賛成する処なりとて、直ちに二十七枚を書す)当山第十世住職筆

 

 鐡舟の大作としてはこれが最後のものと想像される。

 

宝篋印塔 骨壺 (南北朝 或は 室町初期 
178×90×90   石造
今治市指定重要文化財

 

口総地区の北側の海岸に稚児の鼻と呼ばれる場所がある。この宝篋印塔その稚児の鼻の名の由来に縁ある石造物である。今から500年ほど前、この岬に一人の少年の溺死体が漂着した。その着衣から身分の高い家の御子と見受けられた。村民はその遺体を岬の付け根辺りに手厚く葬った。数日後、その遺体を探す船が着き村民の温かい心に謝意を伝えそこに宝篋印塔を一基建立した。その印搭を村民は稚児の墓と呼び、岬を稚児の鼻と呼ぶようになった。
 明治初年、印搭が風波で倒壊し散乱していたのを、村民は寺に移転した。その際、印搭の下から骨壺が発見され、その骨片の小ささから「稚児の鼻」伝説は実話であったことが肯けられたのである。その骨壺は備前焼の室町初期の物である。

施設の概要

宮殿と須弥壇

内陣の仏具は、90年以上前のものを修繕しました。本尊をご安置する宮殿(くうでん)、須弥壇(しゅみだん)は、一般寺院としては最大級のもの。四方正面(背面まで屋根がある)、特に階段付きの須弥壇は他にあまりない様式です。

本堂改築事業

2007年改修事業により、新しい本堂が建立されました。新本堂にはスロープが設置され、車いすでも参拝しやすくなっています。また地下には納骨堂も設置されました。